みこ☆ノート

感じたことや、思ったことを書いています。

ママ友の死

  喪中はがきが届いた。友人の親が亡くなられたのかしら…と思って、文面を読んだら、友人が3週間前に病気で他界したと書いてある。差出人は旦那さんからだった。

 

 驚いた。まだ50代。早すぎる死だ。

 

   友人とは、第1子を妊娠中に母親学級で知り合い、それから子供を保育園に預けるまでの数年間、子供を連れて、公園や児童センターなどで頻繁に会っていた。彼女は思慮深く聡明で、話がおもしろく、一緒にいて楽しかった。夕飯を作る気力がわかない時に、電話をしては愚痴を笑いにかえて元気をもらっていた。彼女も忙しい時間帯だったと思うが、よく付き合ってくれたと思う。

   お互いに働きだしてからは、年賀状のみのやりとりとなってしまった。数年前の年賀状に、中学校へ進学する息子さんを通常級に行かせるか、情緒固定学級に行かせるかで迷っていると書いてあった。おまけに、次女さんが不登校だと言う。わたしの息子が発達障害で支援を受けていたのを知ってのことだろう。早速メールし、そこからラインのやり取りが始まった。

   彼女の息子さんは学習障害と対人スキルに問題があるとのことだった。母として通常級に行かせたいが、息子さんはゆっくりできる固定級に進学したいとのことだった。

文面でのやり取りがもどかしく、電話した時のことだった。

「中学校の学習についていけないのはつらいよね。友人関係もうまくいかなくなったら、学校が嫌いになってしまうかも。息子さんの希望通り固定級へ行かせるの良いかもしれないよ…?」

 と話したら、沈黙のあとで

「○○ちゃん(わたしの名前)はそう考えるのね」

 と、友人は冷たい声で答え、それきり連絡が途絶えてしまった。友人が聞きたかった言葉を告げられなかったのだ。

 かく言うわたしも、息子が通常級でもやっていけるとわかった時には、たいそう喜んだものだ。固定級と通常級では学習のレベルが違ってしまう。息子の将来を心配してのことだった。

それなのに、友人と話した時には、その記憶よりも、固定級に行きたいという息子さんの気持ちを優させた方が良いと思えたのだ。

 そう答えたのには、時代背景も理由にあった。不登校だから将来も不安定という認識は少なくなってきている。今は、いろいろな形で収入を得ることができる時代になってきている。

そんな時代だからこそ、通常級に通えるかよりも、子供への理解と支援があれば、将来についてはそんなに心配しなくても良いと思えたのだ。

 その出来事から数年、突然届いた訃報に愕然としてしまった。

 

 わたしは、15年前にも高校時代の親友を病気で亡くした経験をしている。親友はまだ小学生のふたりの子供を残して、わずか30代の若さで他界してしまった。そんな不条理な死を受け入れられず、長いこと苦しんだ。なぜ、どうして? 残された子供たちは、旦那さんの母が面倒をみてくれることになったものの、動揺は長く続いた。

 ここ数年、親友の死から時が経って、だいぶ気持ちが落ち着いたが、悲しい記憶である。そこへ、飛び込んだ悲報。しばらく茫然とし、信じられなかった。連絡が途絶えたのも、病気が原因だったのかもしれない。いつから具合が悪かったのだろう。

 3人の子育ては大変なのに、彼女はフルタイム勤務をしていて、よく頑張っているなぁと思っていた。お子さんたちの事情を知るまでは、育児も順調なのだろうと思っていた。

 当時の文面からは、母としての苦悩と、子供を思う気持ちと、苦しんでいる当の子供たちへの理解が書いてあり、うかつには発言できない難しい問題を前に、とにかく無理をしないで・・・、道はひらける、何とかなると、友人の苦しみに寄り添っていたつもりだったが、今思うと、それらの言葉は友人をかえって苦しませなかったか、と悔やむ。

 その出来事以来、友人は連絡をしてこなくなった。はじめは確かに気を悪くしたのかもしれない。けれど想像もしていなかった病気にかかってしまい、これ以上わたしに心配をかけたくないという気遣いから、連絡をよこさなかったのかもしれない。

 なぜ亡くなったのか。病因を旦那さんに聞こうかとも思ったが、喪中はがきに書かれた旦那さんの携帯番号を前に動けなかった。旦那さんとは面識がない。それに今はまだ大変な時かもしれないと思うと、受話器を取る力が出なかった。

 一晩考えた後に、彼女を偲ぶ手紙とともに、一度も訪れたことのない住所へお菓子を贈った。電話をかけ事情を聴き、焼香しに友人宅を訪ねることが怖かった。母を亡くしたお子さんたちの顔を見るのが辛すぎて、できそうもない。

 

 最近わたしは、“自分の感情は自分でコントロールできる”という思考をもち、友人の死も“起きたこと”として認め、泰然としていようと努めた。

 お釈迦様は、子を亡くして嘆き悲しむ母に「これから、村の一軒一軒を回り、そこで子を失った母はいないか確かめてきなさい」と告げたという。母は言われた通りに、家々の門をたたき、そこで初めて、世の中に子を失った母が幾人もいることを知り、互いになぐさめあったという説話がある。

 死は、宗教の力では防げるものでなく、“起きたこと”を受け入れるのを救うのが、宗教らしい。全知全能で知られるキリスト教の神様でさえ、死を防ぐことはできない。

 祈りは、心の痛みを和らげるために、その悲しみを癒すためにあるのだろう。

 

 それでも、あんなにも子供思いの善良な母親が、なぜ死ななければいけなかったのか。

高校時代の親友も、ママ友も、

この世にどれだけの心配を残し、憂いながら死んでいったのかと思うと涙が止まらない。

 

 戦争を経験した祖母が、

「悪い人だから死ぬってことはないのよ。良い人でも亡くなる。死ぬのに、人の善悪は無い」

 と、話してくれたことを思い出す。

 不条理な事実を前に、残されたわたしたちは、自分が死ぬまで、その理不尽さを突きつけられるのだ。

 思うように体が動かなくなるまで、あと20年くらいだろうか。夫に「これからは楽しいことをたくさんして過ごそうね」とよく話していた。周りで起きたことに関係なく、いつも楽しんでいよう。幸せでいようと言っていた矢先だった。 

 

 周りで起きたことに関係なく・・・なんてことは難しい。

 周囲で起きたことに、感情は巻き込まれるのだ。

 巻き込まれて苦しんで泣いて泣いて。

 どうしようもないから祈り、祈りながら息をして、日々を過ごしていく。

 

 夫が「あなたの友人は死ぬ人が多い。俺の友人は誰も死んでいない」と言ってのけた。確かに、半年前にも近所の50代の女性がガンで亡くなった。小学校のPTAで顔を初めて知ったが、近所なのに会うことは無く、関係は浅いものだったが、それでも残されたお子さんが息子と年齢も近いこともあり、しばらく気持ちがふさいだ。(その家もおばあさんが、息子さんの面倒を見ている)

 

神様。身体を失った友人の魂が救われますことを、残されたお子さんたちが健やかに育ちますように、どうかお守りください。神様、どうかお救いください。

 

              わたしが祈る『神様』は、どの宗教にも属していない。

           わたしだけが信じる神様だ。いつかその話を書きたいと思う。

 

 祈りながら、祖母のことを思い出していた。祖母自身は、「信心というものは、無い」といつも言っていた。そう言いながら、菩提寺に通い、ご和讃を歌い、住職さんの説法をありがたい面持ちで聞いていた。家には仏壇があり、夕飯前に炊き立ての湯気を立てる白いご飯をお供えし、しばらくして、仏前から下げた冷やご飯を食べていた。

 祖母は幼い初孫を、電車の踏切事故で亡くしている。娘の義母が孫を預かり、うっかり目を話した隙に起きた事故だった。祖母の悲しみは相当なものだったのだろう。毎月、巣鴨とげぬき地蔵尊にも通っていたことも思い出した。

 祖母はおそらく、幼くして亡くなった孫にお供えし、仏前にお供えしたご飯を食べることで、孫を供養していたのだろう。

 

 「信心は無い」と言っていた祖母の気持ちが、当時10代だったわたしにはわからなかったが、今は何となくわかる。

 仏様、なぜ助けてくださらなかったのですか!という悲嘆と、それでも、人間の力では計り知れない「死」を前に、

「どうぞ、こんな悲劇が二度と起きませんように」

 と、祈り続けずにはいられなかったのだろう。

やり場のない悲しみや理不尽な怒りは、祈ることで癒せただろうか。

仏前に手を合わせ終わった祖母は、わたしの視線に気づくと、いつも朗らかに笑ってくれた。まるで、目の前にいるわたしの存在が嬉しくてたまらない、そんな笑顔だった。悲しい過去があったことを微塵にも感じさせない、そんな祖母の笑顔が大好きだった。

 

 友人の死を知り、

「なぜですか? 神様!」

と、叫び、本当に神は存在するのか? とも 思った。

 

 なぜ死ななければいけなかったの? 

 

 でも、人間であるわたしには、その問いに答えを出せない。

 

 わからないから、苦しい。

 

 苦しいから祈り、

 

 かつての祖母が祈っていたように、

 

 神様が救ってくださる 

 

 と信じることで、苦しかった胸がなんとか静まってゆく。